グスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん インタビュー/「大村しげさんが私の人生を100%変えた」

大村しげさんがバリ島で孫のようにかわいがった、グスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん。往年の大村ファンにはアユさんとして知られた彼女に東京でお話を伺いました。

グスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん

Profile
バリ島西部にあるヌガラ生まれ。14歳で大村しげさんの身の回りのお手伝いをするためにウブドへとやってくる。大村さんの没後、鈴木靖峯さんの甥御さんと結婚し、2001年から日本に在住。東洋大学大学院文学研究科インド哲学仏教学専攻修士課程修了。現在は外資系企業で働き、二人のお嬢さんを持つ母親、またバリ舞踊の講師として忙しい日々を送る。しげさんとアユさんの暮らしは、以下の著書で綴られている。「ハートランド バリ島 村ぐらし」(淡交社)、「車椅子の目線で 京都・バリ島 暮らしの旅」(佼成出版社)、「アユとビビ 京おんなのバリ島」(新潮社)、「京都・バリ島 車椅子往来」(中央公論新社)

 

大村しげさんがバリへ移住(※1)を決め、ビンタン パリのコテージに移ったのは1995年のことです。バリで彼女の身の回りのお世話をしていたのがグスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん(以下アユさん)。著書「アユとビビ 京女のバリ島」では、彼女との暮らしを題材に選んでいることからも、しげさんがアユさんを、ことのほか可愛がっていた様子がうかがえます。
※1:過ごしやすい春と秋だけ京都に戻り、あとの8か月をバリ島で過ごしていました。

14歳で日本人に初めて出会った
しげさんの没後、アユさんは鈴木靖峯さんの甥御さんとご結婚され、現在は東京にお住まいです。外資系企業で働きながら、バリ島の伝統舞踊の講師として活躍中。しげさんとの出会いから近況までをアユさんに聞いてみました。
14歳のアユさんが、はじめてしげさんと出会ったのは1995年2月2日のこと。アユさんの叔母さん(ワヤン・スワティさん)がしげさんの友人であり、身の回りの世話をしてくれる人を探していたことが、出会いのきっかけです。

「大村さんが私の人生を100%変えたと思います。真っ白な生地だった私をいろんな色に染めてもらいました。初めて会う前日に、大村さんはウブドに到着していて、翌日の夕方に私と会ったのです。初対面のとき、大村さんは外のテラスに腰かけていて、そのときから優しかった。日本人を見たのはそれが初めて。だってヌガラには日本人がいませんから(笑)。鈴木さんは少し威張っている人のように見えました。反対に大村さんは初対面なのに昔から知っていたように優しかったのです」とアユさん。最初に、しげさんが果物を勧めてくれたことをとてもよく覚えていると言います。


当時、バリ島で撮影された一枚より。画像提供:グスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん

当初は著名人だとはつゆ知らず
アユさんは12歳で小学校を卒業すると中国人が経営する家具屋さんの仕事をしながら、舞踊の練習をしていたそうです。
「あるとき叔母さんが実家に戻り、『今何をしているの?』と尋ねられ、大村さんの元へ行くことを勧められました。日本語も話せるようになるし、舞踊も続けられるというから、それならいいかなと。当初は大村さんが著名な人物とはまったく知りません。おそらく、叔母さんもそんなに有名な方とは知らなかったと思います。一日ずっと書きものをしている姿を見て、日記を熱心に書いているものと思い込んでいました。だって漢字が分からないものですから」。
そんなアユさんは、日本で行われたしげさんの出版記念会に同行したときに、いかなる人物かをようやく理解したのです。「あ、ビビさん(大村さんの愛称)ってすごい人なんだって気付いたんです! それまでもバリ島に来たお客さんが、大村さんに一緒に写真を撮ってくださいとか、サインを下さいということがありました。それも日本人ってそういうものなんだ。ふーんと思っていたくらいです(笑)」


ウブドの農村風景。2017年撮影。町中から少し歩くと、いまだに鶏を放し飼いにするなど昔と変わらぬ風景が残っている

京都の特別な人の食生活に触れる
大村さんとの印象深い思い出を尋ねてみました。「おいしいものを一杯食べさせてくれた人ですね。日本でも、バリでも、シンガポールでも。当時は分かりませんでしたが、今思えば一流のものしか食べなかった。京都でも10月になるとお寺さんから松茸が配達されてくるし、魚屋さんが毎日お刺身の注文を聞きにきてくれるんです。それが京都では当たり前なのかと。もちろんいまではそれが当り前じゃなくて大村さんが特別だったからだと分かります。和久傳さんにも何度か連れて行ってもらい、すごく記憶に残っています。日本滞在中には、毎日いろんな人が会いにくるし、磁石のように人を集める人でしたね。懐石料理のお店に行くと、みんなが『先生』と呼んで、女将さんや料理人がご挨拶をするためにスタンバイしていたんです。最初はそれが日本人同士の普通の生活と思っていました。でも、出版記念会のほか、毎日毎日、いろんな方が彼女を訪ねてくるので、これはタダモノではないと気付くわけです。気付くのが遅かったですね(笑)。そして、ビビさんが病院にこないでというので、病院には行かなかったため、リハビリをしている姿は記憶にありません」。


ビンタン パリのコテージがあった場所の周辺の様子。いまではチラホラと商店、民宿やリゾートホテルができるなどにぎやかになってきた。2017年撮影

京都滞在の思い出
桜と紅葉の時期、しげさんは日本に戻り、アユさんも二、三度、京都に同行しています。期間は一ケ月、二ケ月といった具合で薬をもらうことも帰国の目的のひとつ。日本滞在中は和久傳のイワシ(※2)を買ったほか、「明治屋(当時、河原町三条にあった)、商店街の中の小さなスーパーへ一緒に行ったことを覚えています。大村さん、鈴木さんと三人で嵐山など京都観光も。名所はほとんど回ったと思いますよ。ただ、当時は何もかも珍しく、宝箱を開いたみたい状態。奈良、神戸、大阪にも行きました」とアユさん。京都で、しげさんを病院に送り届ける(※3)と、あとは群馬の実家へ向かう鈴木さんと行動をともにしていたと言います。
※2:和久傳のイワシとは和煮 福久梅鰯(なごみに ふくめいわし)のことと思われる
※3:しげさんは、姉小路の自宅ではなく主に病院で生活を送っていた。

余談だが、京都滞在中には、面白い思い出もある。
「『祇園祭を見に行きなさい。日本人でもわざわざ他府県から見に来るんだよ』と鈴木さんから言われました。でも興味が湧かず『見たくない』、『見なさい』と喧嘩になって。うるさく言われるから、結局、祇園祭を見たんです。そして、すごいと思いました。見ておいてよかった(笑)」。


大村しげさんが暮らしたビンタン パリのコテージ。画像提供:鈴木靖峯さん

おばんざいの心得
また、外食以外では、しげさんはきんぴらやいんげんの胡麻和え、おひたしなど、おばんざいの作り方もアユさんに教えていたのです。「指導は厳しくなかったですよ。バリ島では『京都で食べたものを思い出してみ。食材はなにも(特別なことは)いらないよ。野菜の茹で加減に気を使っていればなにもいらない。食材そのもの、この野菜はどういう味なのかな?ということを自分で考えて想像してやってみて』と。肉も魚も同じで、要は食材の持ち味を殺さないでということですよね。新鮮さ、食材の時期といったことを考えておいしいうちにいただく。普通のことかもしれませんけれどね」。

大村さんが亡くなったとき、アユさんは2日間のニュピ(※4)のため実家に帰っていました。「最後に別れるときは普段通りでした」とアユさん。ニュピが終わり、コテージに戻るといつもと雰囲気が違ったので、スタッフに理由を尋ねて、しげさんの訃報を聞いたそうです。
※4:静寂のなかで過ごすバリの宗教的習慣。この間、商店が休業となるほか、空港は24時間クローズされる。


当時、コテージで撮影された一枚。画像提供:鈴木靖峯さん

本当に日本人らしい日本人

「大村さんは、お化粧もあまりしないし、髪も自然なまま。いまの日本人よりも日本人らしい人だったと思います。すごい方なのに、なぜ何もない私にあんなに優しくしてくれたのか。自然体を好まれたのかな。生き方も食べるものもそう。人との接し方も自然でした。自分が
偉いことを主張しない。そうした日本人の姿は失われつつあると、すごく感じます。みんな生活に追われて余裕がないし、忙しすぎるからかな。人と話すのも嫌になりますよね」。

バリ舞踊を披露するアユさん。画像提供:グスティ・アユ・クトゥット・プスパワティさん 

これからについて、アユさんは次のように話します。「食にこだわるようになったし、大村さんの教えた味を求めて今まで自分が生きているのです。教えられたものが特別なものだと分かっているから、ああいう人間になりたい。だからといって高級なものばかりを食べたいと思っているわけではありません。自分が食べたいものを食べたいと思えるような考え方を与えてもらったのかな。普通の生活のなかで、今日はおいしい天ぷらやお肉、お鮨が食べたいなと思ったら、食べに行ける人間になりたい。きっと自由に生きたいんですよね。誰にも縛られず、行きたいところに行って、食べたいものを食べて、会いたい人に会える。ありのままの自分でいたいと思います」。

いまでは失われつつある京女の知恵や経験が、バリ島出身のアユさんにはしっかりと受け継がれていました。しげさんとの出会いをきっかけに、人生が変わったというアユさん。バリ島と京都、双方の文化を知る彼女のこれからを応援したいと思います。