鈴木靖峯さんインタビュー Part.1 /ワルシャワへの誘いが、バリ島へとつながった

大村しげさんがバリ島へ行くきっかけを作ったのが、長年の友人だった鈴木靖峯さん。バリ島との出会いについて現地取材をしました。

鈴木靖峯(すずきやすお)さん

Profile

東京生まれ、群馬県育ち。修学旅行で訪れた京都を気に入り、高校卒業を機に、京都に居を移す。西陣に住み、西陣で帯の図案を描く仕事に就く傍ら、京都市が設立した西陣青年の家を利用するようになる。西陣青年の家で、大村しげさんと出会い、その後、交流を続けるも1978年にはじめておとずれたバリ島に魅了され、のちにウブドに移住。車いす生活となった大村しげさんをウブドに招き、家族同然に最後まで面倒を見る。現在もバリ島に在住。

 

 

大村しげさんの人生を語るうえで、欠かせない人物が鈴木靖峯さんです。京都とは全く環境の異なるバリ島を大村さんが初めて訪れたのは1982年のこと。これは、鈴木さんがバリ島のウブドに700坪の土地を借り、住む部屋を建てたのに際し催された祝いの式に出席するのが目的でした。

鈴木さんは1978年に、初めてバリ島を旅行。以来、現地の人たちとの交流の輪を広げ、頻繁にウブドを訪れていました。一度、バリ島へ行ってからは大村さんもウブドをすっかり気に入り、毎年6月に訪れていたと言います。そして、鈴木さんは車いす生活となった大村さんをウブドへ招き、バリアフリーの住まいを提供して、ケアをしたのです。

2017年8月、管理人はバリ島で鈴木さんにお会いしました。会ってみると、とにかく温和な方で、優しい語り口が印象的。学校を出ると家族の元を離れ、西陣で働いていたそうですが、正月休み(※)は群馬の実家に帰らず、和歌山などへの旅を楽しんでいたとのこと。まさに旅がらすとはこういう方のことを言うのでしょうか。

※昭和30年代頃の西陣には、社員と言っても丁稚のような昔ながらの習慣が残っていました。鈴木さんと同じ時代、西陣の織り屋に勤めていた私の父によれば、社員は元旦の朝に雑煮をいただいてから帰省し、3日にはまた会社に戻ってくるのが常だったとか

かつてのビンタン・パリ・コテージでの一枚。画像提供:鈴木靖峯さん

手作りの店  峯をスタート

京都時代にさかのぼり、当時のお話をうかがうと、そもそもの鈴木さんとバリ島の出会いに、わずかながら大村さんが関わっていたことがわかったのです。かつて鈴木さんは、京都市の運営する若者の交流施設、西陣青年の家で出会った仲間たちとともにクラフト活動に取り組んでいました。施設には周辺の伝統産業に従事する若者が多く集まっていたほか、東山青年の家など、ほかの地域の若者たちとの交流もあったと言います。

職人として与えられた仕事だけをこなすのではなく、陶芸や木工、織物など自分たちの分野で、それぞれが作りたいものを作って売る。これが、鈴木さんの理想でした。鈴木さんはみんなに自分の考えを伝えて、製作を依頼。清水焼の仲間には、絵付けをせず、ただ白いものを、といった具合に。いわゆるおみやげ物とは異なる性格を持ち、実際に使えるセンスの良いものを目指していたのです。活動は大村さんの賛同もあり、彼女の自宅を間借りした自らのショップ「手作りの店 峯(みね)」でクラフト製品を販売。大村さんも自宅にいるときは店番をしていました。

 

 

 

 

 

 

取材時、79歳の鈴木さん。当時の記憶は非常に鮮明で、貴重なお話を次々にお聞かせくださいました

ワルシャワへいらっしゃい

「峯の最初のお客さんはワルシャワの大学の教授の奥さんだったんです。それで『ワルシャワにいらっしゃいませんか?』って言われて、知らないところだけど、『行く行く!』て言ってね(笑)。その方は大村の知り合いだったんです。大村の女子大(現在の京都女子大学の前身である京都女専)の同級生で、そのときに私が居合わせて『いま主人はワルシャワにいて』、『いらっしゃい』ってね。それで電話番号だけメモでもらっておいて、ワルシャワについて駅から電話して、『何番のバスです』って。二つ(二両)つながってるバスでしたね。それで『何番で降りて』と。いま思えば、よく行ったなあと思ってね(笑)」。

鈴木さんのお住まいに設置された大村文庫。大村さんの著書を始め、現地では手に入りにくい日本の本が、いろいろと揃えられています。表札の側面には大村さんの命日が書かれています

そのとき、旅好きだった鈴木さんは3週間有効のユーレイルパス(ヨーロッパ中の鉄道に乗ることができる)を入手しており、チェコ、オーストリアのチロル地方、イタリア、スイス、ノルウェーをはじめ、ヨーロッパ各地を巡っています。そして、モスクワから横浜への帰路で出会った、ドイツ人と意気投合し、彼に日本を案内。次の旅の機会に、鈴木さんはミュンヘンの彼の自宅へ遊びに行ったそう。彼の家には見慣れないお面が飾られていて、聞きなれない民族音楽が掛けられていました。「これはどこのお面?」と聞いた鈴木さんに、彼がバリ島のお面であることを教えたのです。また、掛かっていたのはバリ島の民俗音楽ガムラン。当時の鈴木さんの身のこなしは軽く、さっそく1978年に西陣の仲間たちを誘って、バリ島へ出かけます。旅好きで、臆せずに人との交流を楽しめる鈴木さん。外交的な性格と、大村さんの友人が彼をヨーロッパへ招いたことが、のちのお二人の人生を大きく変えるきっかけとなったのです。 (続く)